堺市立泉ヶ丘東中学校 教諭過労自死 事案について

1.過労のため妻が亡くなった

(1) 被災者

私の妻は、1998年10月18日、うつ病のため51歳で亡くなりました。妻は中学校の社会科教師を務めていました。

(2)暴力の横行、成立しない授業

勤務していた中学校は、荒れた学校で、暴力事件(対教師、生徒間)が多数発生し、授業も成立しない毎日でした。本人も22年の教師生活で初めての暴力を受け、「私は殴られるような悪いことをしたのだろうか」と苦しんでいました

(3)バラバラな教師、人格がすり減っていく

教育委員会、校長は何ら取り組まず、放置するだけでした。「私は生徒とうまくやっているから生徒に殴られない」と自慢する教師もいました。

妻は「教師がバラバラでとにかく仕事がやりにくい」とか語っていました。また、「人格がすり減っていく」「心の中に北風」「無力感に襲われる」といつも語っていました

(4)持ち帰り残業

休日も含め毎日深夜まで、自宅で持ち帰り残業を行っていました。学校内では仕事ができない、とにかく忙しいし、生徒が勝手に職員室に入ってくるからです。

例えば、持ち帰り残業として、生徒が後でも分かるようにと授業プリントを、大きな食卓のテーブルいっぱいに資料を広げ熱心に作っていました。でも、せっかく作ったプリントが紙飛行機になって教室を飛ぶのを見ると悲しいと語っていました。

保護者との電話相談や生徒指導、生活指導での問題が毎日おこり、毎夜のように保護者や同僚などと長時間の連絡に追われていました。 

(5)うつ病の発症

1997年6月、鳥取県大山での林間学校2泊3日から帰った直後にうつ病を発症しました。林間学校では担任女子生徒が深夜に行方不明になるなど不眠不休の3日間でした。医師は「ただちに3か月の休業が必要」と診断しました。

私は中学校へ行き、病気休職の手続きを依頼しました。ところが、教頭は「今でもぎりぎりでやっているから休まないでほしい」と言うだけ。妻も「先生が急に休むと生徒が裏切られたと思う」と言われたそうです。

妻はその後も通常勤務を続けました。病気の妻に対して、支援や勤務の配慮などは全くありませんでした。

(6)最後の授業、学校から緊急入院

結局、休業せずに仕事の軽減や支援の全くないまま仕事を続け、発症5ヵ月後の1997年11月、担任クラスの授業の際、正面前から2列目の席で漫画週刊誌を大きく広げていた生徒とのトラブルが起きました。この授業が最後の授業となりました。妻は学校から精神病院へ緊急入院しました。

その後、入退院を繰り返し、1998年10月自死しました(享年51歳)。

(7)学校での支援が全くなかった

1997年6月、堺市教職員組合が、この中学校の荒れている実態を訴えたところ、教育委員会事務局は「校長からそんな報告はないから、知らない。分からない」と回答するだけでした。

1997年3月、新学年を前に、妻が2年のクラス担任引き受けの際、校長へ相談したところ、校長は「かまへん、かまへん。これだけ荒れていたら、誰がやってもいっしょ」と言うだけでした。

1997年6月、林間学校の直後に、重度のうつ病で3か月の休業を要すると診断されて、病気休職の手続きを依頼したのに、教頭が「休まないでください」と言って拒否したことは前に述べたとおりです。

最後の授業となった時、職員室で「もうこれ以上仕事を続けることができない」と涙ながらに訴える妻に対して、学年主任は「なに言ってんの、頑張ってよ」と言い放つだけでした。

(8)判決でも指摘(大阪地裁)

後に公務災害と認めた大阪地裁の判決文は

  • 「本件中学校での異常ともいうべき勤務環境に加え、対教師暴力の被害者になったにもかかわらずそれに対する積極的な支援がなく、かえって放置されたともいうべき状況」
  • 「日常の勤務それ自体が強い肉体的、精神的ストレスを伴うものだった」(学校側からは)「指導方針に一貫性も統一性もなく、教師への積極的な支援もしなかった」
  • (学校側の)「事なかれ主義的な対応に、女性教師は憤りと孤立感を深めた」

と指摘しました。

2.公務災害を申請したが、8年かかって認定されなかった

本人は仕事熱心で病気になったとしか思えませんでした。このままなら、埋もれてしまう、闇に葬られてしまう、迷ったあげく、死後2年目の2000年10月に公務災害を申請しました。公務災害とは公務員の「労働災害」制度で、申請先は「地方公務員災害補償基金」です。

申請から8年、申請は棄却され認められませんでした(2008年6月)。

3.裁判所へ訴え、 勝訴判決 公務災害と認定された

認定を求めて大阪地裁に提訴しました(2008年10月)。

裁判では、同僚の証言、生徒の協力、労働組合の全面的な助けなどを得ることができました。家族ではなかなか分からない職場の様子、過重労働の実態などを多くの方の証言、陳述書などで明らかにすることができました。法廷は、いつも定員に倍する方々が傍聴に来られ、毎回満員でした。おかげで、公務災害と認める勝訴判決(2010年3月)を得ることができました。この大阪地裁の判決は大きく報道され、国会でも取り上げられ、確定しました

4.過労死を考える家族の会と私

公務災害申請に迷っていたころ、弁護士の方から家族の会を紹介していただきました。弁護士事務所の会議室をお借りして開かれていた例会に出席し、このような集まりがあることに驚き、感激しました。

入会してからは、毎月の例会に出席して、会員の体験、弁護士から最新の労災の動きなどに耳を傾けました。私が特に勇気づけられたのは、同じ立場である自死の遺族の方のお話しでした。また、会員の裁判傍聴とその後の報告集会はとても参考になりました。

私の裁判の提訴後には、裁判に会員がいつも多数駆けつけてくださり、大変心強く、ありがたかったです。大阪の会員だけでなく、全国の家族の会員とも知り合って世界が広がりました。

妻の死から12年、裁判で勝訴するまでの長い間闘うことができたのは、家族の会からの有形無形の助けのおかげです。あらためて、家族の会の皆様に感謝します。 

5.過労死家族はひとりぼっちじゃない

妻が亡くなってから24年になります。ところが、労働災害・公務災害・教員の過労は現在も深刻なままです。今も多く方が過労に苦しめられています。不幸にして、亡くなる方も後を絶ちません。当事者、家族、遺族が手を取り合って、力を合わせ、まず悩み、悲しみを分かち合いましょう。さらには、社会から過労死を無くすことに取り組みましょう。

家族の会への入会を心から呼びかけます。

以上